Sketch/横浜開港・生糸の輸出

▼横浜開港から昭和初期

安政6年(1859)、横浜などが開港し鎖国の時代が終わる。
ペリーなどの目的は、捕鯨船の寄港地を確保するためという話もあるが、欧州から目の色を変えて押し寄せてきた商人たちの目的は違った。
当時、欧州では蚕の感染症(微粒子病)の蔓延によって、養蚕業は壊滅的な状況にあった。貴族層の絹製品のニーズは高いため、輸入先を探していたが、主要輸入国であった中国(清)はイギリスとのアヘン戦争でそれどころではない。しかし、その近くにある日本という国にも上質な絹があると知ってやってきた。横浜に上陸してみると、農民(あるいは商人)が生糸を売っていた。信じられないほどに安価で上質の生糸を手に入れて、貴族層には高値で売れたのだからウハウハな商売だ。幕府や政府の取締りもなんのそので、密貿易も常態化していた。

こうして「作れば売れる」大ヒット商品となった生糸生産は、明治政府の国策となった。
粗製乱造や相場の乱高下もあり、手堅い稲作農家からは「カイコには手を出すな」とバカにされた時期もあったが、畑作地や山間部など他に換金作物のない地域の農業は激変した。

しかし、どんなに頑張っても、1頭のカイコは1個の繭しか作れない。
増産するためには、(1)生産地域と生産者を増やす、(2)年間の生産回数を増やす、しかない。

(1)生産地域と生産者を増やす

こんな山深いところにどうしてこんな集落が?と思うことがあるが、明治政府は養蚕業普及のために山間部の開発を勧めた。現在も独特の養蚕建築の様式を残した住宅がまだ残っていて、その周りにはたいがい桑の木もあったりする。

残存養蚕民家地帯(埼玉県児玉郡)

(2)年間の生産回数を増やす

明治初期までは、養蚕は年に1回の春蚕だけだった。その後、蚕種を冷暗所(風穴など)に保管し孵化の時期をずらすという「蚕種遅発法」が発明され、年に8回以上も養蚕を行なうような大農家も現れた。そうとう広大な桑畑を持っていたか、桑を買ってこないと間に合わないよねー。
ちなみに冬は、桑葉が枯れるのでお休み。

そんなこんなの努力の甲斐あって、昭和5年には世界の繭生産のシェア60%を占めるまでに成長する。
ピーク時の養蚕農家は、220万戸に及ぶ。
それで得られた利益で教育・医療などの福祉や鉄道などのインフラの整備も進んだ。
イギリスから最新型の戦艦を買ってきて日露戦争で勝利したりもあったが、そこから技術を学び(盗みw)、開発途上国から先進国の仲間入りをしていく基礎が築かれた。

その活力源は養蚕・製糸業であり、蚕を育て製糸場で糸を繰る女性たちの社会的な地位や人権意識も大きく変わっていった。

<映画「あゝ野麦峠」看板(松本歴史の里・長野県松本市)

それにしても「コロナ禍」ならぬ「微粒子病禍」で(たまたま)日本は激変したのだから、世の中何が起こるか分からない(笑)

余談1)黒船はお土産にコレラや腸チフスなどの感染症を置いていき、商人などが持ち帰って地域に広めた。
神奈川県藤沢市で製糸場を営んでいた持田初治郎は、生涯に最低3回も腸チフスに罹り、3度目の入院で「もはやこれまで」と思ったのか半生記を書き残した。しかし回復して地域の名士としても活躍したのだが、関東大震災でメイン工場が倒壊し「もはやこれまで」と廃業した。

余談2)養蚕が盛んだったイタリアでは、アジアからの安い生糸に押されて農家は養蚕を廃業。その後、ブドウ栽培に転換しワインの名産地となったそうな。山梨県はそれに習ったのかな(笑)

 

 

▼最盛期の生糸輸出とストッキング

動画配信で「名探偵ポワロ ABC殺人事件」(イギリス 1992年)を観ました。アガサ・クリスティの代表作の一つといわれるのわかるなあ。TVムービーのシリーズなんだけど、なかなかよくできています。
その中で、「絹のストッキング」を売り歩く行商人が怪しいという話が出てきます。クリスティがこの小説を発表したのは1936年で、この行商人というのは第一次大戦の戦争被害で精神身体にダメージを受けた人への経済的な救済のようなものだったらしい。富裕層から見れば、買ってあげないとかわいそうとか、お布施(寄附)のような宗教観もあったのかも。単純に貧困層でも家族へのプレゼントとして喜ばれていたように描かれている。
さて、この「絹のストッキング」なるものがどういう経緯でこんなストーリーに絡んでくるのでしょうか。
原作が書かれた1936年(昭和11)、日本は生糸生産世界一から急転直下する寸前です。その生糸のほとんどはアメリカに輸出されていました。しかもそのほとんどが現地工場で「絹のストッキング」を作る原料になったのでした。そのため、生産者へは「高品位の細い糸が良い」とプレッシャーがかけ続けられていたらしい。24デニールくらいが多かったとか?(記憶は定かでない)
当時ハリウッドでマレーネ・ディートリヒが「100万ドルの脚線美」と称えられたその足を輝かせたストッキングも日本の養蚕農家さんが丹精込めてカイコを育てた努力の成果に違いない(笑)
それはともかく、1937年(昭和12)にはワシントンで、ファシズムの敵国である日本排斥を目的として、女性たちによる「シルクストッキング・ボイコット運動」が始まる。キャンペーンでは、「あなたのストッキングが子どもを殺す」という言葉も使われ「シルクストッキングと殺人とが直接的に結びつけられた」というような状況が報道されている。(「養蚕と蚕神」沢辺満智子より)
売れ残りの「絹のストッキング」がディスカウントされてイギリスなどにも流れ、怪しい行商人が徘徊する、そんな世相がクリスティのアイデアになったのかもしれませんねー。
開戦とともに、ジャパンシルクは凋落する。1941年には「ナイロン製のストッキング」の発売が始まり、戦後には日本国内にも広がっていき、「これがストッキングか!」と女性たちは熱狂した(知らんけどw
よくよく考えると、日本人女性で「絹のストッキング」を使ってました、なんていう人はいるのだろうか(笑)戦後にアメリカの売れ残り品が闇市とかに流れてた、とかはありそうだけど。

 

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