八王子鑓水から横浜への「関東のシルクロード」は、現在の町田街道あるいは境川に沿った地域にポイントが点在する。
川に沿って農村の生活圏があり、そこに修験僧が入り込んで養蚕の振興と布教を行っていたということかな。
生産された生糸などは、街道だけでなくて、水運も利用して横浜へ出荷されていたのかも。
このあたりには蚕影社が多く、八王子から北東方面にも点在するが信仰のあり方は違いがみられる。
それは、農業地域(養蚕)と商業地域(織物)の比重の違い、地域が開発された時期の違い、修験僧の果たした役割の違いなどによるのだろう。
●蚕種石/町田市相原町295-1


養蚕農家の人たちが蚕の守護神として信仰してきた蚕種石。
この谷戸の集落は現在でも蚕種石(こたねいし)地区と呼ばれている。
この石は戦前までは土手の隅にあって草にかくれていた。
近年までこのあたりで、蚕の守り神として崇められていたもので、石のかたわらにある桑の大木の嫩葉(わかば)を摘んで毛蚕にあたえ、養蚕の良くできるよう願うならわしだったという。
そして八十八夜ごろになると、この石はいつの間にか緑色に色変わりして、人々に「蚕のはきたて」を知らせたといい伝えられている。
古老の話によると、八十八夜の日には幟が立てられて、参詣人で賑わったという。
(「橋本郷土研究会資料」より)
石の形は長楕円形で、蚕の卵というより繭形ですね。

川沿いに桑が自生していた。
このあたりは、桑畑が広がっていたのだろう。
●二十三夜堂/相模原市緑区東橋本4-14-33

蓬莱橋のたもとにいい感じのお堂があった。
二十三夜塔や庚申塔あり。
●札次神社/町田市小山ヶ丘3-17-2554

これも 「子種石・こたねいし」 として祀られているもの。
これは、タマゴっぽい形。
「お蚕(こ)さま=お子さま」「こたね=子種」ということで、蚕神は安産・子授け祈願にもなっている。
養蚕が家の中で行われ、カイコがただの家畜以上の愛情を注がれていた文化とつながっている。
●蚕影神社/相模原市中央区宮下本町2-17-19宮下自治会館

不動明王 阿弥陀如来の石塔なども一緒に並んでいた。
祠の後ろに謎の本尊?
●東京都町田市上相原
江戸時代の相模国高座郡上相原村
ここの名主家当主は文化12( 1818)〜昭和26(1951)の130年ほどの間、農事記録である「社稷準縄録」を代々記し続けました。
養蚕の初出は文政9(1826)の5月らしく、そこに「世間より少し遅し」とあるものの、これが5月に始めるのが遅い意味なのか、養蚕を上相原村で始めたのが他村より遅れての意味なのかは不明。
名主家は出納帳簿もつけており、そこから若干引用。
農閑余業として質屋か金貸もやっていたようです。
天保8年(1837)
収入352両 内訳:利子193両、小作料67両、無尽金受取37両、穀物売上10両などの中に糸代22両、桑代3両。
支出304両 内訳:質年貢1両、棄損金17両(貸倒か)、無尽掛金42両、皆済金(年貢のこと)30両、小遣140両(w
慶應3年(1867)
収入960両 内訳:貸金利子249両、小作料148両、穀物売上53両などの中に糸代252両。
支出938両 内訳:皆済金100両、無尽掛金26両などの中に蚕入用90両、雇まゆ取賃6両など、小遣644両(w
文政9年に始めた養蚕は10年後もたいした儲けにはなっていませんでしたが、安政6(1859)の開港以後、事業規模を拡大し、慶應3には貸金業より大きな儲けを生み出すようになっていたわけです。
金額はインフレ経済ベースの江戸時代だし、特に幕末は凄まじいインフレだったので単純比較はできませんが、文化12からの30年ほどで収入は3倍なのに対し、養蚕関係の売上は10倍になっていました。
社稷準縄録はよく知られた史料で各種論文に使われているようですので、探せばここから養蚕関係だけ抜き出して分析した論文もあるかも。
糸の売り先は八王子だろうし、大尽遊びしただろうし
個人的には小遣いの内訳を知りたいが…無理だろうな〜w
(中川)